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コロナ禍にあって

2021/07/05

【伝えられた法話から】
 人は年では死なないと祖母は日常にあることを子供にでもわかるよう言い残した人であった。名を取って芳子語録とし、今でも卓上を賑わすことがある。そうは言っても、人伝にどちらが若い方が・・・と耳にすることはあっても、周囲はお年で亡くなった方のほうが圧倒的に多いものであった。
 そんな自分は子を亡くして八年を迎えようとしている。この年月、人間が年齢では亡くならないことの多さを痛く実感してきた。知らないというより、知ろうとしない、知る必要がなかったのか。悲しい思いをし、少しは人の心が解るようになったかといえば、全然わからない有様だ。結局は、自分が作り出した心の方程式に従うだけであって、相手の方程式を理解しなければ、その心は読めないという理屈である。この式が数式のようにお約束になっているのならばよいのだが、人の心はその数ほど何通りも微妙な差を付けて存在するものだ。
 また、努力が実らないこともよくあることである。喜んでもらえると思ってしたことが的外れで迷惑がられたことはないだろうか。程々にと手を抜くのも如何なものですが、人に何かしてあげようと勢い付いている時は完全なる自分の思い込みでしかないものである。感情移入しない数式の世界に没頭するか、はたまた昆虫の研究に野山を駆け巡るか。
結局、戻ってきたのは相手を理解しようという原点であった。
 スパコンも何の為に研究開発するのか。希少種の昆虫を保護していく環境を整備していくにはどうすればよいのか。万事、巡りめぐって人に返ってくるのだ。人とかかわっていく再出発に際し、今度は何に注意をすればよいのか。馬には乗ってみよ、人には添うてみよ。人の心は寄り添ってみなければ分からないが、あまりにも他人に振り回されていた帰来がある。振り子のように大小様々に振れる中にも必ず通る中心線みたいなものが欲しい、という内容の手紙が送られてきた。ここから法話の本題に入りたいところだが、法話を聴く・説く大前提は人の心に添うてみることではないのか。実がなく、どこかから借りてきた話に歯が浮く始末だ。朝夕の勤行は欠かしません、御遺文も解説書付きで勉強しています。これも大事の事だが、上記手紙の当人の方が御経文に触れたなら、水を得た魚の如く教えを体得するのではなかろうか。縁あって、大道を踏み固める小石となるなら、しっかり地に足を着けて歩みたいものだ。