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静岡、納骨堂・永代供養「三諦」

2020/10/01

前回からの続き

さて同じ菓子でも、饅頭、羊かん、せんべい、大福餅皆姿形、拵方(こしらえかた)、味い皆ちがいます。そのちがった見かたを假有とも假諦とも申します。姿形はちがっていても皆相性体等をそなくて居らないものはありません。そう見てくると何もかも別なものでないことがわかります。かく皆同じと見るむきを空とも空諦とも申します。然しつまりは假有とも空無ともきめられません。そこで中諦と見ることも間違いではありません。それ故、十如の文を時、如是相の一つでも如はかわりない見かた即ち空諦になり、相は假諦になるのです。だからこの一句にも三諦を兼ね備えて居ります。そこでお経を読むときは所謂諸法以下を三度に読むのです。即ち如是相、如是性と相で切って読めば假諦の読み方、是相如と言う様に如で切って読めば空諦の読み方、相如是と言う様に是で切って読めば中諦の読み方になるのです。然し句切をやかましくつけないでもその心もちで三度に読めば三諦の読み方になるわけです。先きの十如と同様にどんなものでも、よく考えて見ると皆三諦をそなえて動かない処であります。これを三諦即一とも三諦円融とも言われるのであります。斯様な理屈は兎も角として、私共凡夫も仏も十如や三諦を土台として見るべきときは皆同じことになりますので、凡夫が仏様になれない筈はないというのが衆生成仏の根底をなすので、法華経迹門十四品の内に残らず皆成仏の記別をうけられたのであります。(記別とは証明のことです)

右饅頭の譬諭をよんで
川柳
  十如の饅頭三返蒸した美味かな(斎藤)
これに対し遠藤老僧正より
此の頃聞いたこと、読んだこと直ぐ忘れて困ります。どうせねりなおし、蒸し直しなれば味も大層落ちたことを恥ぢ入ります。十如の御賞味についてお返し
  むしなおす饅頭まずしと(十)かくも(如)も