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静岡、納骨堂・永代供養「善い」

2020/06/26

「善きこと」というのは、深い思慮から出た自然の行為をいいます。それを「利行」(りぎょう)といいます。利行というのは、相手に自らの力をつくして、ただひとえに行う良き行いであって、それに対する見返りとか報いとかを求めない心です。見返りを考えないから、行いをなし終わったことに対する満足感が生じてきます。それが「いまによろこぶ」心です。
 道元禅師は「衆生を見るに、先ず慈愛の心をおこし、顧愛(こあい)の言語を施すなり」といい、さらに「面(むか)いて愛語を聞くは面(おもて)を喜ばしめ、心を楽しくす、面わずして愛語を聞くは、肝に銘じ魂に銘ず」と示されたように、まずやさしい言葉のかけあいが、何よりの「善きこと」のはじめではないかと思うのです。
 「善きことをわれはなせり」、誰にほめられるでも、誰に認められるでもありません。その陰徳はそのまま自分自身の生き甲斐となって、自分自身の人生をうるおしてくれるのです。
 そして、それが、私たちが快適に生きていくための大切な羅針盤でもあります。
快適というのは快楽とは違います。気持ちイイんではなく、ずっと普通でいられること。快楽はそれを続けると飽きてしまう限界というのがあります。
 芭蕉の俳句に「おもしろうて やがて哀しき鵜舟かな」というのがあります。アユをさかなに女性を侍らせ・・・お酒でもいただき、鵜飼いを楽しんだであろう芭蕉も、楽しさの頂点を過ぎてふっと空しい気分になる。
又、漢の武帝が「秋風の辞」に「歓楽(かんらく)極まって、哀情(あいじょう)多し」と詠んだものと同じものです。遊び、楽しむ快楽が感極まっても心までうるおうというものではないのです。快楽というのは幸福の条件ではありません。勘違いしないようにしたいものです。
 「善きことをわれはなせり」。自分にできることは何でもいいんです。他人に施す財が無くてもできる「無財の七施」という教えもあります。道路を掃除することも、老人や子供をいたわることも、身障者や困窮者への協力も、財のあるものは財力をもって、力ある者はその力に応ずるままに、「はからいを捨てて、世の人の為につくす」ことこそ最上の人の道であろうと思うのです。

当山彌勒の丘・納骨堂・永代供養塔は最上の教えを唱える道場です。お待ちしております。