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静岡、納骨堂・永代供養「懺悔について」

2019/09/28

 仏教で罪を悔いて許しを請うこと。懺は kṣamaの音写を略したもので「忍」の意味がある。また罪を許して忍ぶようにと他人に要請することも含まれる。悔は過去の罪を悔いて,仏,菩薩,目上の者,大衆の前に告白し,わびることです。半月ごとに行われるウポーサタ (布薩) の集会において、罪を犯した比丘が懺悔を行なったともいわれる。
 キリスト教では「ざんげ」と濁る。日本の僧侶のなかにも上記の発音をするものがいる
「さんげ」を心得て戴きたいと心から思う。そういう輩には懺悔して貰いたい・・・
 また自分の犯した罪過を悔悟,告白し,許しを求めること。仏教では〈さんげ〉といい,釈迦時代に布薩(ふさつ),自恣(じし)の懺悔法があった。布薩は半月に1度,戒本を誦し,罪あれば僧伽(そうが)の中で告白し,長老の許しをこうもの。自恣は夏安居(げあんご)の終りの日に,参加した僧が互いに批判し,罪があれば告白し合うものであった。
  仏教では250戒を罰則の軽重によって5種あるいは8種に分けるが,そのうち最も重い罪は波羅夷(はらい)罪で,殺生,偸盗,婬,大妄語(悟っていないのに悟ったといううそ)を犯したものに対して課せられ,犯戒者は教団から追放される。その他は軽重はあってもすべて,懺悔(さんげ)によって許される。戒の条項は比丘で250,比丘尼では348とされる(部派により異なる)が,元来は随犯規制といって,その行為が問題として取り上げられるたびにしだいに増加したとされる(初犯は規定以前なので罰せられない)。
 仏教(宗教)の根幹こんかんは、自らを顧かえりみることです。その中でも自らがしたであろう善よい行い(智慧と行動)はいつまでも覚えているものですが、日々犯しているであろう罪(不平や不満、愚痴ぐち、不行ふぎょう等)は、果たして私たち自身がどこまで覚えているものでしょうか。それは、知らず知らずのうちに誰かを傷つけているのかもしれません。そんな私たちにとって、仏教の教えや法華経の信仰は、懺悔ざんげに始まり懺悔ざんげに終わる教えです。そして、その懺悔ざんげの中で自みずからの罪の重さ(事(知らず知らずのうちに犯したであろう罪)の重大さ)が自覚されてくるのです。
日蓮大聖人さまの教えの根本は、懺悔ざんげの行ぎょうです。懺悔ざんげの唱題(お題目)を積み重ねる中に、お釈迦さまに生かされている自己じこ(私たち自身)に気付くのです。
その時、懺悔ざんげの唱題は報恩の唱題ともなってくるのです。
日々の生活の中で、口(言葉)、行い、誘導(陰から授ける智慧=悪智慧)には、自分自身で常日頃から気を付けるように心がけ、また物事をよく考え(意=心)てから、話(口)し、行動(身)しましょう。