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静岡、納骨堂・永代供養「死とは」

2019/05/04

「死後私は何らかのかたちで生き続けるかもしれず、すなわち何らかの有かもしれないなのですが、死を完全な無とみなしたうえで、無とは何かを探っていくことにする」と人気哲学者の中島義道氏がいう。しかし、死を無とみることをそれほど簡単にしてしまってはどうであろうか。死後の自分は何らかの関わりあいのなかで生き続けるかもしれず、また何らかの有かもしれない。さらに、己の死とは、これまで経験習得してきた言葉の境界を超えているともいう。すなわち無とは私たちが普通に使っている人間の言葉で語れないということである。したがって、そもそも「無」ということも意味を失うし、「私」ということも成り立たない。如何にも哲学的で理解がし難い。

さらに死者のことばがあるとすれば、その言葉では死者を語ることはできるかもしれないが、それは生きている私たちが用いる言葉とは全く異なったものであり、私たちには理解不能ということになってしまう。と続く。死後について、「有」にせよ「無」にせよ、思わせぶりの言葉を使う必要もなく、「分からない」というひと言で済ます不可知論で十分ではなかろうか。死後については沈黙あるのみ、というほうが正直であろうという。

さすがに哲学者のことばは、奥歯にものが詰まったモノの言い様である。「死」は死んで始めて分かることであり、哲学的に想像するのは自由であるが、魂魄となって生き続けると信じたい。それが仏教である。当山では亡き霊位のそれぞれの魂魄に心を込めてご回向いたします。その為の納骨堂であり、永代供養塔であります。